賑やかだったサマースクールを終えて感じたこと。
オルタナティブ教育☆少し遅めのサマースクールが無事に終了しました。
全体のレポートはトマトさんが書いてくれたので、僕は終了後に感じたことなど、もう少し踏み込んだ内容を書いていきたいと思います。
Photograph yixtape
オルタナティブ教育について注目したのは、昨年度のアートと教育を繋げる事業の際に、札幌市文化部の担当者に若者支援センターや、教育支援センターに連れて行っていただいことがきっかけでした。
また、他にもフリースクールの先生や、若者困窮者支援の方々と語る場を設けたことで、より深く考えるきっかけになりました。
個人的な感覚でいうと、学校教育以外の選択肢というのは大いにアリだと思っています。
僕自身、中学生のときに香港のインターナショナルスクールに通ったのですが、そのときは先生やクラスメイトと英語力が違い過ぎて、学校に行っても何も理解ができないので、よくサボっていました。
夏休みにフィリピンにある父親の友人宅にホームステイをし、そのときに家族の人にマンツーマンで英語を基礎から教えてもらいました。
ホームスクーリングに近いような環境だったと思います。
そこから少しずつ英語を話せるようになり、香港に戻ったあとも学校で授業を徐々に受けられるようになっていきました。
それは少し特殊なケースですが、なんせこれからの時代はAIと共存していく時代です。
これまでとは打って変わって、ひとりひとりの主体性や多様性、こだわり(専門性)というものが強く求められるであろう時代です。
決して学校教育を否定する訳ではありませんが、「そのほかの選択肢」として、オルタナティブ教育の発達や充実がますます必要になってくるはずです。
今回参加してくれた子どもたちは、みんな主体性があり、気持ちが良いほど自分の意思をはっきり示していました。
すでにオルタナティブスクールに通っている子もいて、この分野ではむしろ私たちの先輩。
彼らは、普段から森で育っている環境もあって、Sola Art Retreatという特殊な環境に対して、アウェー感なく過ごせているようでした。
むしろ高層ビルに囲まれた環境だった方が、いつもとは違うなにかを感じられたのかもしれません(笑)
好き嫌いもはっきりしていて、「なんとなくやった方がよさそうだから・・・」みたいに場に流される子は一人もいませんでした。
私たちが何かを与えるのではなく、むしろこちらが多くの学びと気づきをいただいた三日間でした。
そんな子どもたちへの、アーティストによる体験プログラムは、成功も失敗も含めて冒険と挑戦に溢れていました。
普段の活動とは少し外れる、初めての取り組みに挑戦するアーティストもいました。
子どもたちにとっては、面白かったこと、面白くなかったこと、両方ともたくさんあったことだと思います(ちなみに面白くない時は、すぐに外に出て遊んでいました笑)
Sola Art Retreatの素晴らしいところは、自然豊かな場所で、心穏やかに過ごせることだと思います。
多少の失敗や不一致も、おおらかに包み込んでくれる環境でした。
プログラムもできるだけ詰め込まず、むしろ火を囲みながらの会話や食事の時間を大切にしました。
なにより、オルタナティブ教育は親も苦労することが多々あると思うので、親の皆さんにも穏やかな時間を過ごしていただきたいと願っていました。
少しでもリフレッシュしてもらえたのであれば、なによりです。
事前にオルタナティブ教育について考えたり調べたりしましたが、個人的には「まだ発展途上の分野」だと感じました。
バリ島のグリーンスクールなど、先駆的な事例もありますが、まだまだ完成された分野ではなく、逆にポテンシャルに満ち溢れている分野だという印象をもっています。
また、学校に通わない子どもたちの中には、こだわりの強い天才肌の子も多く、アートとの親和性は非常に高いように思います。
その意味で、アートとオルタナティブ教育の可能性は、今後さらに広がっていくのではないでしょうか。
ただ、一方で、「アートには社会課題を解決する力がある」「アーティストは教育現場でも活躍できる」などと、必要以上に掲げることには慎重になるべきかもしれません。
というのも、アーティストというのは決して万能な人たちではなく(万能に近い人もいますが)、どちらかというとデコボコが強くて、強い部分はめちゃくちゃ強いけど、極端に弱い部分もある、みたいな人も少なくない気がしています。
実際に、僕自身もまた長所と短所がはっきりとしている人間で、強みを活かせる現場では活躍しますが、相性の悪い現場では本当に機能しません。
アーティストだけではなく、間に立つコーディネーターも必要だし、なによりマッチングという要素が非常に大事なのだと思います。
なので、「教育とアートの可能性」についても、冷静な視点と議論が必要なのではないか、ということを今回の事業を通して改めて感じました。
そういった考えのうえで、教育現場において、僕たちがアーティストに期待しているのは、野球用語で言えば「豪快なホームラン」なのかもしれません。
そのためには三振が増えたって構わない。
ヒットを稼いで着実に打率を上げることは、先生が最も得意とするところだと思うからです。
先生は毎日、教育と子どもたちに向き合っています。
長い歴史の中で積み重ねられてきた教育のスキルを学び、授業を成立させ、全体を管理し、みんなに平等な教育機会を与えている。
それはとても難しく、尊い営みであり、心から敬意を抱かずにはいられません。
ただ、その環境の中で「ホームラン」を打つのは容易ではありません。
なぜなら、ホームランには「挑戦」と「冒険」、そして大胆な失敗が欠かせないからです。
今回の参加アーティストの皆さんは、できるだけジャンルの違う方々にお願いしました。
美術系の方は今回はタイミングが合わず叶いませんでしたが、作曲、木こり、建築、LEGO® SERIOUS PLAY®、身体表現、発声など――単純にアートの枠には収まりきらない人たちが集まってくれました。
各プログラムでは、事前に「参加してもいいし、しなくてもいい」とご家族にお伝えしました。
また、プログラム自体も「臨機応変に内容が変わる」ということも初めから掲げていました。
(アーティストの皆さんには酷かもしれませんが)どんなことに子どもたちが反応するのか、あるいは反応しないのかを、試行的に確かめる時間でもあったのです。
さらに「子どもたちだけにやらせるのではなく、大人も一緒に体験する」という方針を共有しました。
全員が体験の当事者になることで、子どもを孤立させないと同時に、大人が良いと思うこと、子どもが良いと思うこと、その境界線がくっきりと浮かび上がりました。
よく「子どもも大人も楽しめる内容です!」というフレーズを見かけます。
けれど僕は、この言葉にどこか懐疑的な想いを感じることがあります(笑)。
もちろん、年齢を超えて楽しめる企画もあります。
そしてそれは、ひとつの理想のようにも見えます。
でも、それが「常に良いこと」とは限りません。
未就学児、低学年、高学年、中学生、高校生――。
それぞれの発達に応じて、必要とする刺激や理解の深さがあり、笑いのツボだって微妙に違います。
学校教育が学年ごとに細かく学習内容を設定しているのは、そうした発達段階を丁寧に踏まえているからだと思います。
ただ、学校教育が完璧だとも思ってはいなくて。
体系的に学べる一方で、つまずくと取り返すのが難しかったり、
逆にもっと先に進みたい子がペースを抑えなければならなかったりする。
そういう「学びの個性」には、いまの学校制度ではなかなか十分に応えきれない面もあります。
今回の事業を通しても、
“大人も子どもも、誰でも楽しめること”
“それぞれの年齢のなかで、誰かは楽しめること”
このふたつの真逆の要素のあいだで、
考えたり、揺れたりする時間が生まれたらいいなと思っていました。
そんな考えがあったことに加えて、
正直に言えば、最初は募集が思うように集まらなかったという事情もありました。
このふたつの理由から、今回のサマースクールでは、思い切って対象年齢の幅を広げました。
うまくいく部分もあれば、きっとうまくいかない部分もあるでしょう。
でも今の僕たちに必要なのは、この場をきれいに整えることよりも、課題も効果も反応も、むき出しのまま受け止めること。
そうした“ガラス張りの挑戦”から始めるのが良いんじゃないか。
そう思ったのです。
異年齢にしたことで、アーティストにとっての難易度は格段に上がってしまいました。
「このあたりに着地できれば」と描いたゴールは修正を余儀なくされ、場に設定したルールも容易に破られていきます。
誰かにとって楽しいことが、別の誰かにとっては楽しくない。
異年齢での関わりが生まれると、その幅はさらに広がっていきます。
しかし、考え方を変えれば、これは「通用すること」と「通用しないこと」の境界を明確にできる試みでありました。
結果的に、子どもたちに受け入れられなかったことでも、どこまでは通用して、どこからは通用しなかったのか。
思い切った挑戦や失敗から得られる気づきというのは、やはりとても大きかったです。
いきなり堅い話になりますが(笑)
今回の事業は札幌市の助成金によって運営しました。
公金を使う意味を考えたとき、いくつかの視点が浮かびます。
- 新しい事業に挑戦し、それを育て、将来的に税金として社会に還元すること。
- 民間事業だけでは届きにくい人々へ、採算度外視で福祉や機会を提供すること。
- 社会実験として、新しい取り組みを検証し、その成果や課題を社会に共有すること。
- 市場原理だけでは実現しにくい、多様な文化や教育のあり方を支えること。
他にも視点はあると思いますが、今回の私たちは「2~4」、そのなかでも特に「3」を意識しました。
成功確率が高く安定した事業であれば、助成金に頼らずとも実施できます。
だからこそ助成金を活用して、通常業務ではなかなか踏み出せない領域に、思いっきり挑戦させてもらいました。
そう、こういう試みって実は、民間の”通常業務”ではなかなかできないことなんです。
社会貢献に特化した事業部があるような、金銭的体力がある大企業なら別かもしれませんが、中小企業や個人事業主の場合だと、事業的にも、予算的にも、まずは成立させることがボーダーラインにどうしてもなってしまうので。
と、話が逸れてしまったので、アートと教育に話を戻して……
子どもたちとの関わりが巧みで、教育現場での経験も豊富なアーティストは確かにいます。
ただ、その数は多くありませんし、そもそも「関わりの巧さ」や「誘導の技術」をアーティストに一律に求めるべきかどうかは、慎重に考えたいところです。
今回のサマースクールを通して、私たちが改めて向き合ったのは、教育という場でアーティストがどのような役割を果たし得るのか、という問いでした。
アートは必ずしもキラキラとしたポジティブなものではなく、ときに問いを投げかけ、違和感を生み、揺さぶりを与えるものでもあります。
アーティストが子どもたちに「何かを提供する」ということを意識しすぎたり、教育現場の社会課題解決を強調しすぎれば、本来のアートの魅力や特長から遠ざかってしまう危うさもあるでしょう。
そう、アーティストは教育者とは一定の距離を保ちながら、そのうえで何を担いうるのか、ということを深く考える必要があるように思えました。
そしてこれは、教育者だけ、アーティストだけじゃなくて、間に立つ人々も含めて「チーム戦」で臨むべきことなのだ、と改めて実感したのです。
今回のサマースクールでは、アーティストがそれぞれの能力を活かして、多様な体験機会を提供してくれましたが、次のステップとして考えられるのは、教育者とアーティストが協働するための「場づくり(環境づくり)」なのかもしれません。
双方の専門性を尊重し、役割の境界を丁寧に設計したり、ときには境界線をはぐらかしながら、そこから立ち上がる気づきと可能性を確かめていくことが重要に思えました。
そういう意味では、今年度の事業はこれから「教材開発プロジェクト」へと繋がっていきますので、これも必然的な流れだったのかもしれません。
事業の反省点としては、広報・周知の時間が足りず、多くの方へ情報が届けられなかったこと、アプローチが上手くできなかったことがありました。
もう少し、「こんな活動がある」ということを、より多くの人に認知してもらえた可能性はあったと思います。
その辺りは、短期間での公募事業の難しさを感じました。
とはいえ、確かに、この場に集まってくれた方々がいたこと。
限られた人数で過ごせたことで、みなさんと深くお話をすることができたことには、とても充実感を感じています。
浦河のオルタナティブスクールである、フレンド森のがっこうの理事長・伊原さんとお話しできたことも、非常に学び多い時間となりました。
私たちが本当の意味で目指すのは、みずからオルタナティブスクールを運営することでも、ワークショップを幅広く運営することでもありません。
すでにある学校や団体、個人のみなさんとゆるやかに協働して、アートと教育のポテンシャルを可視化し、接触機会を増やし、世の中の空気を少しでも変えていくことがミッションだと考えています。
「アートと教育って、いいね!」
「挑戦することって、大事だね!」
今回参加していただいた皆様には、世の中にはいろんな人間がいること。
アーティストという、少し変わった職業の人達がいること。
考え方や、生き方には、いろいろな選択肢があること。
少しでも何かを感じてもらえたら幸いです。



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